健康オタクの引越し
その日の現場は、朝八時集合だった。
梅雨明け前で、湿気がやけに重たい。
「今日、やけに早くないっすか」
田口があくび混じりに言う。
新人らしく、ヘルメットがまだ少し大きい。
「個人宅だ。量は少ないけど、時間指定」
「朝イチ指定って、なんか意識高そうですね」
「偏見言うな」
そう言いながら、俺も同じことを思っていた。
現場は築浅の低層マンション。
エントランスがやたらと清潔で、掲示板に貼られた注意書きも全部きれいに整列している。
部屋は一LDK。
ドアを開けた瞬間、匂いがした。
柔軟剤でも芳香剤でもない。
強いて言えば、スポーツジムの更衣室に近い。
「……なんか、空気違いません?」
田口が小声で言う。
「言うな。感じてるなら黙っとけ」
玄関には靴が三足。
全部スニーカーで、色は白・黒・グレー。
揃いすぎていて、逆に生活感が薄い。
リビングに入ると、まず目に入ったのは棚だった。
観葉植物……ではない。
プロテイン。
シェイカー。
サプリメントのボトルが、サイズ順に並んでいる。
筋トレ系かと思ったが、少し違う。
派手さがない。
ラベルも、無駄に主張してこない。
床はきれいだが、何もないわけじゃない。
ヨガマットが丸められて壁に立てかけられている。
体重計が、使ったあとそのままの位置にある。
「これ、引越しっすよね」
「見りゃわかる」
「モデルルームじゃないですよね」
「黙って作業しろ」
キッチンに入る。
冷蔵庫は中型。
開けると、中はスカスカだ。
野菜室に、透明な保存容器。
刻まれたブロッコリーと、鶏むね肉らしきもの。
賞味期限は、全部今日か明日。
調味料は少ない。
塩、オリーブオイル、見慣れない粉末。
砂糖はない。
「自炊、してますね」
「してるな」
「ちゃんと」
「ちゃんと、だな」
家具は最低限。
ソファはなく、椅子が二脚。
テレビは壁掛けで、コードが一切見えない。
寝室にはベッド一台。
枕が二つ。
でも、生活している気配は一人分だ。
ここで、依頼主が顔を出した。
三十代前半くらいの女性。
ラフな運動着。
髪は後ろで一つに結ばれている。
「よろしくお願いします」
声は柔らかい。
でも、立ち方が妙にまっすぐだ。
「こちらこそ。今日は搬出のみですね」
「はい。新居は午後からで」
部屋を見回す視線が、やけに正確だった。
荷物の動きを、無意識に追っている。
段ボールは少ない。
本も少ない。
服も、数が絞られている。
なのに、捨ててる感じがしない。
「これ、軽いっす」
田口が言う。
「全部そう言うな」
「いや、ほんとに」
確かに軽い。
中身が少ないというより、無駄がない。
作業は滞りなく進んだ。
トラブルもない。
依頼主も、必要以上に話しかけてこない。
完璧すぎる。
最後の荷物を運び出し、部屋が空になる。
がらんとしているのに、寒々しくない。
生活が、ちゃんと残っている。
トラックに積み込みを終えたところで、田口が言った。
「……なんか、不思議っすね」
「何が」
「健康的すぎて、逆に」
「逆に?」
「……息苦しいっす」
俺は何も言わなかった。
ただ、さっき見た保存容器の並び方を思い出していた。
きれいすぎて、余白がない。
トラックのエンジンをかける。
ここから先は、移動時間だ。
——妄想するには、ちょうどいい。
妄想タイム
トラックが走り出して五分。
信号待ちで、田口が助手席から振り返った。
「さっきの人、絶対“健康オタク”っすよね」
「断定早い」
「でも、あの冷蔵庫はもう……」
「確かに、あれは普通じゃない」
俺はハンドルを握りながら、さっきの部屋を思い返す。
「まず、砂糖がなかった」
「っすね。あと、調味料が少なすぎる」
「味を楽しむより、目的がある飯だ」
「“食べたい”じゃなくて、“必要だから食べる”タイプ」
「言い方きついな」
「でも、そういう人ほど優しい顔してません?」
田口が言う。
確かに、依頼主の声は柔らかかった。
「優しいというか、整ってる」
「整ってる?」
「感情も生活も、全部“適量”」
「あー……飲み会で割り勘ぴったりの人」
「それだ」
田口が笑う。
「でも、あの人、誰かと住んでた感じしました?」
「しないな」
「枕は二つあったけど」
「あれは“もしもの余白”だ」
「余白?」
「一人だけど、完全に閉じてない」
「来たら来たで対応します、みたいな」
「冷蔵庫に予備がないのと一緒だな」
「そうそう。常に新鮮な関係」
田口が勝手に納得する。
「休日は何してると思います?」
「午前中ジム」
「午後は?」
「整体」
「夜は?」
「早く寝る」
「……つまんなくないっすか」
「だから続く」
俺は言った。
「刺激を求めない生活は、長持ちする」
「でも、恋愛は?」
「する」
「え」
「ただし、めんどくさいのは嫌いだ」
「LINE未読三日とか平気な人」
「平気だな」
「で、相手が不安になる」
「それで距離置かれる」
「“私ばっかり好きみたい”って言われる」
「言われてそうだな」
二人で笑う。
「でも、あの人、ちゃんと傷つくタイプっすよ」
「そうだな」
「顔に出さないだけで」
田口が少し考えてから言う。
「……あの人、引越し先でも同じ生活しますよね」
「するな」
「間取り変わっても」
「家具変わっても」
「健康ルーティンは崩れない」
「たぶん、引越し理由も“環境”だ」
「静かさとか、日当たりとか」
「隣人トラブルとかじゃない」
「仕事のステージが変わった感じ」
トラックは高速に乗った。
街並みが流れていく。
「仕事、何してると思います?」
「デスクワーク」
「営業じゃない」
「人と話すけど、消耗するタイプ」
「帰ったら、誰にも会いたくない」
「だから夜景見ながら、一人でストレッチ」
「“今日もよくやった”って、自分に言う」
「言ってそうだな」
田口が静かに言う。
「でも、たまに寂しくなる」
「なるな」
「その時だけ、誰か呼ぶ」
「で、次の日自己嫌悪」
「“乱れた”って思う」
「で、プロテイン増える」
「増えるな」
二人で、声を出さずに笑った。
引越し先のマンションが見えてきた。
同じような高さ。
同じような清潔感。
「結局、変わらないっすね」
「変えない人なんだ」
「でも、それを悪く言わない」
「羨ましい部分もある」
「自分をちゃんと管理できるって」
「俺には無理っす」
「俺もだ」
トラックを停め、荷台を開ける。
段ボールを運びながら、田口が言った。
「……でも、あの人、いつか誰かと住みますよ」
「何で?」
「枕、捨ててなかったから」
俺は少し考えてから、うなずいた。
「そうかもな」
作業は淡々と終わった。
依頼主は相変わらず丁寧に礼を言い、
最後まで生活のリズムを崩さなかった。
帰りのトラックで、俺は思った。
俺たちは、他人の人生を運んでいる。
でも、中身は見えない。
見えるのは、置き方と、選び方だけだ。
そこから先は——
全部、妄想だ。
※これは相馬と田口の妄想であり、
必ずしもこの妄想の限りではない。


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