その夜、誠は夕食後の食器を片付けていた。リビングに漂う食洗機の穏やかな音。カチャカチャと皿が洗われる音が、静かな夜に響く。
隣の浴室からは、美咲の鼻歌が聞こえてきた。ふわりと浮かぶような、軽やかな声。
普段の無邪気な彼女の声は、どこか安心感を与える反面、今の誠にとっては緊張の中の一点の光のようでもあった。
手を止め、冷蔵庫を開けたとき、誠の視線は小さな光沢のある物体に吸い寄せられた――プリン。小さなカップに金色のアルミのフタ。ひとつだけ。
思わず誠は唾を飲み込む。
甘い香りが鼻腔をくすぐり、理性と欲望のせめぎ合いが、瞬間的に頭の中で暴れ始めた。
プリン――ただのスイーツ。しかし、誠にとっては過去24回の結婚生活で学んだ“夫婦における最も危険な食材”だった。小さいけれど、爆弾のような存在。
「勝手に食べたでしょ!」「私の楽しみを奪った!」「そういうところが思いやりないのよ!」数々のフラッシュバック。過去の結婚で経験した悲劇的プリン事件が、次々と蘇る。幾度も繰り返されてきたプリン地雷――それは食卓の平和を一瞬で崩す魔物だ。
誠は冷蔵庫をそっと閉め、キッチンの中央で腕を組んで立ち尽くす。頭の中では、すでに名探偵・高梨誠としての分析が始まっていた。
気づけば彼は、トレンチコートを翻し、鹿撃ち帽を目深にかぶっている。なぜか虫眼鏡まで握っている。
しかも背景は薄暗いロンドンの霧。冷蔵庫の代わりに石畳の路地裏だ。
「……犯人は、プリンか」
どこからともなくパイプの煙が漂う。
しかし現実の誠は、Tシャツにジャージ姿で、片手には食器を持ったままだった。
推理その1――美咲が自分用に買った可能性
美咲は甘いものが大好きだ。仕事帰りに疲れて寄ったコンビニで「甘いものでも食べて元気出そう」とプリンを購入した可能性。もしこれを誠が食べてしまえば、間違いなく「なんで勝手に!?」と罵声を浴びることになる。過去の経験が教えている。プリンの一口は、夫婦の信頼の一口でもある。
推理その2――俺のために買ってくれた可能性
結婚して日が浅い今、彼女が気を利かせて「誠さんに食べてもらおう」と思った可能性もある。しかし、その場合は「一緒に食べよう」と言うはずだ。まだ何も言われていない現状では、可能性は低い。しかし、確率はゼロではない。
推理その3――明日のお弁当用の可能性
美咲は子どもっぽいところがある。お弁当に忍ばせてサプライズを企てているかもしれない。もしそうなら、今食べてしまうとその楽しみを奪うことになり、未来の不機嫌指数が跳ね上がる。
「……ぐぬぬ」
誠は冷蔵庫の前でうなり声を上げる。甘い香りが誘惑となり、理性は崩れそうだ。脳内の名探偵とプリン好きの自分が、今まさに壮絶な戦いを繰り広げている。
⸻
次に脳内裁判が始まった。
気づけば、そこは重厚な法廷だった。天井はやけに高く、赤い絨毯がまっすぐに伸びている。中央の証言台に立っているのは、スーツ姿の俺。
そして傍聴席には、無数の“俺”がぎっしりと座っていた。
腕を組んでいる俺。
メモを取っている俺。
やけに真剣な顔でうなずいている俺。
中にはポップコーンを持っている俺までいる。
全員、真顔だ。
検察官(俺):「被告人・高梨誠は、妻のプリンを無断で食べようとしている! 動機は“食べたい”という欲望のみ! しかも今、冷蔵庫の前で三分間、フタを凝視していた!」
その瞬間、傍聴席の俺たちが一斉にざわめいた。
「やっぱりな」
「欲望に弱い」
「24回の経験が活きていない」
弁護人(俺):「異議あり! 凝視ではない! 視認確認だ! 被告はまだフタに触れていない! 未遂にも至っていない!」
裁判長(俺):「ふむ……しかし視線の粘着度は高いな」
検察官(俺):「さらに申し上げます! 被告は先ほど“ぐぬぬ”と発声しておりました!」
弁護人(俺):「それは空腹による生理現象です!」
裁判長(俺):「被告、高梨誠。甘い物は好きか?」
誠(俺):「……好きです」
検察官(俺):「動機確定!」
弁護人(俺):「好き=犯行ではありません!」
弁護人の俺が机を強く叩く。
裁判長(俺):「ふむ……証拠不十分……しかし、動機は明らかに欲望に基づいているな」
コン、と木槌が鳴る音が頭に響く。
「被告は冷蔵庫から半歩下がり、深呼吸すること」
誠は実際に、半歩だけ下がった。
「いや、俺は何をやっているんだ……」
頭の中で裁判が進行するうちに、誠は自分の行動の不毛さに気づく。
「いや、俺は何をやっているんだ……」
思わず両手で頭を抱える。冷蔵庫の前で、ただ立ち尽くすだけの自分に笑いが込み上げそうになる。
⸻
しかしさらに、妄想シミュレーションが始まる。
もし食べた場合――
俺:「美咲、ごめん。プリン食べちゃった」
美咲:「えっ、あれ誠さん用だったのに!」
→ 結果:ハッピーエンド(少し怒られるが笑って許してくれる)
もし失敗した場合――
俺:「美咲、ごめん。プリン食べちゃった」
美咲:「えっ、あれ私が楽しみにしてたのに!」
→ 結果:離婚フラグ発動(冗談では済まない)
「可能性50%……これはギャンブルすぎる」
誠はソファに腰を下ろし、冷や汗を拭う。背中にはプレッシャーが重くのしかかり、心臓は早鐘のように打つ。プリンの存在が、こんなにも重大な選択を生むとは。
⸻
「ガチャ」
浴室のドアが開き、美咲が髪をタオルで拭きながら出てきた。濡れた髪の間から湯気が立ち上り、夜の光に柔らかく照らされる。
「誠さん、どうしたんですか? 難しい顔して」
「な、なんでもない……」
危ない、口を滑らせそうになる。目の前にいる彼女の笑顔を前に、正直すぎる答えは許されない。
美咲はリビングへ向かい、テレビをつける。誠は再び冷蔵庫に視線を送る。プリンは静かに、しかし確実に彼を誘惑する。
――食べろ。食べるんだ。俺はここにいるぞ。
「くっ……!」
両手で頭を押さえ、心臓が早鐘のように打つ。プリンのカップはまるで小さな魔物のように、目の前で光を放っていた。
⸻
「誠さん?」
「うおっ!」
突然の声に、誠の心臓が跳ね上がった。
さっきまで脳内で開廷していた法廷が、一瞬で静まり返る。
「冷蔵庫にプリンありましたよね?」
その一言で、世界の音が遠のいた。
テレビの音も、食洗機の水音も、すべてがフェードアウトする。
鼓動だけがやけに大きく、耳の奥で鳴っている。
ついに来た。
審判の時。
24回分の結婚生活が、走馬灯のようによみがえる。
「勝手に食べたの?」
「あれ楽しみにしてたのに」
「そういうとこだよ?」
歴代の元妻たちの声が、脳内で大合唱を始める。
やめろ。
今は25回目だ。
誠は喉を鳴らした。
呼吸が浅い。手のひらに汗が滲む。
「え、あ……うん。あったけど……」
声が少し裏返った。
美咲はまっすぐこちらを見ている。
その目が、妙に澄んでいて怖い。
「誠さん、食べました?」
ドクン。
心臓が一度、大きく打つ。
ここでの返答次第で、未来が分岐する。
Aルート:微笑み。
Bルート:沈黙。
Cルート:静かな怒り。
「いや、いやいや! 食べてない! 俺は無実だ!」
反射的に両手を上げていた。
なぜか自白前の容疑者のポーズで。
一秒。
二秒。
美咲の沈黙。
誠の脳内で、離婚届がひらひらと舞う。
そして――
美咲はふふっと笑い、スプーンを手に取る。
「冗談ですよ。あれ、誠さんのですから」
耳を疑う誠。
「……え?」
「昨日の帰りに寄ったコンビニで、『これ誠さん好きそうだな』って思って買ったんです」
「……俺の、だった?」
「はい! でも私も一口欲しいです!」
緊張が一気に解ける。誠は深く息を吐き、冷蔵庫からプリンを取り出した。二人でスプーンを分け合い、少しずつ口に運ぶ。
「ん~! おいしい!」
美咲の無邪気な笑顔。甘さよりも、その笑顔に心を撃たれる。
「…美咲」
「はい?」
「ありがとう」
一瞬だけ、声が低くなる。
「え? どういたしまして?」
彼女は首をかしげる。
その意味を彼女はおそらくわかっていないだろう。
誠は心の中で静かに思った――24回の結婚では“奪い合う”ことばかり覚えてきた。 25回目の結婚にして、ようやく理解した。夫婦におけるプリンとは、分け合い、喜びを共有するためにあるものなのだと。
誠はこのプリンに、これまで知らなかった甘さを見つけた。


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