お盆の帰省――その二文字だけで、誠の背筋は汗ばむ。
ハンドルを握りしめる手には、ありえないほどの力がこもる。
助手席では美咲が、能天気にアイスコーヒーをすすっている。
「大丈夫だってば、誠さん。うちの両親、ちょっと頑固なだけで優しいんだから」
「……いや、美咲。俺は知っている。嫁の実家は、甘くない」
誠は眉間を押さえ、うめいた。
――脳内に、書斎のような空間が広がった。
壁一面にはキャビネットがずらり。ラベルには「帰省トラウマ1~24」と書かれている。
名探偵誠がそこに立つ。手にはチョーク、机には古いファイルが山積みだ。
「案件番号:TR-OBON-01。通称『お盆帰省大作戦』。過去の失敗を参照し、今回の最適戦略を導く」
誠は引き出しをガチャガチャと開け、過去の“靴下穴事件ファイル”“謎雑煮事件ファイル”“栗きんとん氷結事件ファイル”を取り出す。
書斎内の空気は張りつめるが、現実世界では美咲が無邪気にアイスコーヒーを飲むだけ。
▪️靴下穴事件
三番目の妻の実家での正座挨拶。
「今日はお世話になります!」
と元気よく頭を下げた時、目に入ったこは自分の靴下に空いている大穴。
義父もそれに気づき
「……身嗜みも整えられんのか。みっともない」
義父の低い声。場が凍りつき、誠の心も凍りついた。
初動対応ミスで義父の冷たい視線を浴びる。再発防止策は新品靴下5足持参……OK
▪️謎雑煮事件
元妻の実家で出されたお雑煮。
「うちのお雑煮は、ちょっと独特なのよ」
そう言って出されたのは、味噌仕立てに納豆、さらに柿が浮いた謎スープ。
妻も両親も笑顔で美味しそうに食べている。
一般的にこの味がウケるかどうかわからないが、誠の味覚には確実に合わなかった。
必死に平らげたが、誠は震えた。
「これが一生続くのか……!」
以来、“実家の味付け”がトラウマとなった。
味覚危険度MAX、精神的ダメージ評価9.7……
うむ、今回は美咲に事前リサーチ済み
こういう変なメニューはない……と思う。
▪️栗きんとん氷結事件…
十番目の妻の実家。誠は気合を入れて「栗きんとん」を持参した。
だが、義母は一口食べ、箸を置いた。
「……私、これ苦手なのよね」
沈黙。時が止まった。
(あの視線、あの冷たい空気!)
以来、誠は“お土産リサーチ命”の男となった。今回は美咲に三度も「お義父さんとお義母さん、嫌いな食べ物とかない?」と確認済みだ。
過去の教訓により、義母の好みを三度確認済み……完璧だ
誠は胸の中で静かに息をつき、書斎のランプを暗くする。
「……よし、これで本日の任務は成功する可能性が最大化された」
その瞬間、助手席の美咲が笑顔で話しかける。
「誠さん、なんか顔が怖いよ……」
誠は現実世界に戻る。
(書斎内の推理がどんなに完璧でも、目の前の天然笑顔には勝てない……!)
⸻
誠は深呼吸を繰り返した。
「靴下よし! 手土産よし! 今日は絶対に失敗しない……!」
「誠さん、修学旅行前の中学生みたい」
美咲が笑うが、誠は笑えなかった。
⸻
実家到着――
美咲の実家は、木の匂いが濃厚な古風な家だった。
玄関の引き戸を開けると、京子がにこやかに顔を出す。
「暑かったでしょう。さ、入りなさい」
「お母さん、ただいま!」
「お邪魔します……」
誠は45度の深々としたお辞儀。手には妙に汗が滲んでいた。
――名探偵誠、脳内出動。
書斎の壁には「実家帰省ファイル」がずらり。
“無言圧力事件”“沈黙の新聞作戦”“初対面挨拶爆弾”など、読むだけで胃がひっくり返りそうなファイル名。
誠の心拍計が異常値を叩き出す。
リビングに目をやると、父・和夫が新聞を広げて鎮座していた。
寡黙。無表情。鋭利な空気をまとっている。
「……座りなさい」
その一言に、誠の背筋が凍った。
まるで、雷鳴が脳内で轟き、鼓膜を震わせるようだった。
沈黙が流れる――いや、流れるどころか、空気が重力を持っているようだ。
誠の鼓動が耳鳴りのように響き、手のひらには汗。額には冷や汗。
(……これは、帰省史上、最強クラスの緊張空気……!)
誠の脳内書斎では、名探偵誠が顎に手を当て、分析開始。
「圧力最大値……沈黙指数、120%…会話成功率3%。なお、その3%も“天気の話”限定」
美咲はそんな夫を尻目に、楽しそうにアイスコーヒーをすする。
誠の心の中で、小さな悲鳴が響く。
⸻
食卓に並ぶ料理は豪華だった。焼き魚、煮物、漬物、味噌汁。
(……未知の料理は、なさそうだ。ふぅ……)
ホッとした瞬間、和夫が低く言った。
「遠いところ、ご苦労さん」
義父の和夫が、缶ビールを誠の持つグラスは注ぎながら言った。
「い、いえ……ありがとうございます」
ぎこちない笑顔。会話は続かない。
和夫と京子は、娘の美咲には積極的に話しかけるが、誠へは明らかに壁を作っていた。
箸を進めるうちに、京子が口を開いた。
「……この前の結婚式ね。親戚から散々言われたのよ。“バツ24の男なんて大丈夫か”って」
誠の箸が止まる。
「肩身が狭かったわぁ。」
「……」
和夫も口を開いた。
「俺もだ。“どういう男なんだ”と何度も聞かれた。答えようがない」
視線が突き刺さる。誠は凍りついた。
「ちょっと待って!」
美咲が箸を置き、声を荒げた。
「どうしてそんな言い方するの! 私が選んだ人だよ?」
「でもね、美咲」京子が眉をひそめる。
「世間はそう甘くないの。あなたが恥をかくのよ」
「恥なんて思ってない! 私は誠さんと一緒にいるのが幸せなの!」
「幸せ? そんなもの、一瞬で終わるかもしれないだろう。24回も離婚してるんだぞ」和夫が低く言う。
「お父さん!」
空気が張り詰める。
「私ね、あの日、本当に悔しかったの。親戚から“なんでそんな男と”って笑われて」京子の声が震える。
「私だって娘を守りたいのよ!」
「守るなら、応援してよ! 私の選んだ人なんだよ!」美咲の目に涙が浮かぶ。
誠は耐えきれず口を開いた。
「す、すみません……すべて僕のせいです」
「誠さん!…誠さんは謝らなくていいの!!」
珍しく美咲が強い口調でいう。
「いや、確かに僕は何度も失敗しました。でも……でも、今回は違うんです!」
思わず声が裏返った。
和夫がギロリと睨む。
「違う? 何がだ」
「ぼ、僕は……!」
誠の喉が渇き、言葉が出ない。
重苦しい沈黙の中、美咲だけが声を張り上げた。
「私は誠さんと一緒に生きたい! 何度でも言うよ! 絶対に離れない!」
誠は拳を握りしめた。
(妻の実家でこんな風に守られたのは……初めてだ……)
――夕飯の空気は最悪のまま、時間だけが過ぎていった。
(後編へ続く)


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