第8話 ガス抜き

オリジナル小説集
このエントリは 9の11の部分 シリーズに 25回目の結婚生活

それは沈黙から始まった

結婚してからというもの、誠は美咲の前で一度たりともオナラをしていない。

なぜなら——美咲のオナラを聞いたことがないからだ。

「オナラって、してる?」

そんなこと、聞けるわけがない。

かつての離婚歴の中で、誠は学んだのだ。

オナラは、信頼と嫌悪の境界線にあるデリケートな問題なのだ。

過去に離婚には至らなかったが、地雷は多かった。

脳内で誠はまたも探偵モードに切り替わる。
脳内に石畳の足音が響く。

薄暗い書庫。
天井まで続く棚。
無数のラベル。

誠はロングコートの襟を整えた。

もちろん現実では着ていない。

誠はパイプをくわえ直す。
火はついていない。

そもそも吸い方も知らない。
誠は棚の奥へ進んだ。

そこにあった。

黄色と黒の縞模様。
危険表示ラベル。

■生理現象関連事故ファイル

静かに棚の奥へ手を伸ばした。
誠は一瞬ためらった。

だが、ゆっくりページをめくる。

ここには元妻達とのオナラに関する記録が残されている。

■事件名:
風呂上がり“ピロッ”事件

状況:風呂上がり。
完全に油断していた。
タオル一枚。
無防備。

結果:
「セクシーさのかけらもない」

夜の営み停止(約2週間)

誠の心の声:
「そんな……不可抗力だ……」

誠はページを閉じかけた。
だがまだ終わらない。

この棚は厚い。
もう一枚めくる。

■事件名:
高級旅館・睡眠中事故

状況:旅行先。
高級旅館。
深夜。

完全無意識。

防御不能。

結果:翌朝から事情聴取開始

「昨日の夜さ」
が合図だった。

音も匂いも凄かったらしく、高級旅館の雰囲気が台無しだと怒られた。

以後、誠は旅行中ほぼ眠れなくなった。

誠の心の声:
「寝ることすら許されないのか……」

誠は無言で天井を見上げた。

まだある。
この棚は終わらない。

■事件名:
リラックスしていいよ事件

状況:
「家ではリラックスしてね」

信じた。
完全に信じた。

休日に元妻は洗濯や掃除など、家事をしている側で、ソファで横になりながら、スマホをいじりながら大きなオナラをした。

結果:
予想以上の破壊力

そして激怒

誠の心の声:
「信頼とは何だ……」

誠は静かにファイルを閉じた。

結論は出ている。

生理現象は――
離婚の直接原因ではなかったが、オナラが地雷になる確率は非常に高いという知見を、誠は積み上げてきた。

その日、美咲が作ってくれたのは「キャベツとニンニクの焼きそば」

しっかりとニンニクが効いていて、それは美味しかった。

しかし

案の定、誠の腹がぐるぐると異音を奏で始めた。

「誠さん、顔色悪くない? お腹痛い?」

「いや、大丈夫……たぶん……」

だがダメだった。腸の暴走は止まらない。

体勢を変えれば漏れそうだし、座り続けても腹圧が限界。

テレビで笑ってる美咲の隣で、誠は汗をにじませながら、脳内でルーレットを回す。

どんなオナラが出る!?
音あり? 音なし? ニオイ強め? 対流に注意!?

上手く音を消して出せるか?!

ギャンブルだ。人生最大の賭けだ。

だめだ!

もう

我慢できない……

……プスッ。

(あっ)

ごくごく小さな音。だが、誠の耳には爆発音のように響いた。

誠の背中を冷や汗が伝う。

「……なんか今、変な音しなかった?」

美咲が不意に首をかしげた。

「え? テレビじゃない?」

「誠さん、今体動かしたよね?」

「いやいや、これは椅子の軋みというか……」

必死の言い訳。声裏返り気味。

そして——
美咲は誠の行動に何か勘付いた。

「……オナラ、していいよ?」

「……え?」

「ていうか、しないほうが不自然じゃない?人間の整理現象だもん」

「まじか」

「私も我慢してるけどさ、体に悪いし。オナラで愛が冷めるなら、最初から無理だったってことでしょ?」

(うおお、名言……)

「いや待って。美咲も我慢してるって、つまり……」

「うん。今までに5回くらい、めちゃくちゃ出そうだった」

「5回⁉︎ そんなに⁉︎」

「でもさ、生理現象だし、夫婦だし、そろそろ出してもいい頃かな~って悩んでた」

「そろそろ……⁉︎」

「なんか、恋人の時からずっと我慢してたから辞め時がわからなくて…」

美咲も悩んでいたのか。

「だからもう、これからは2人とも我慢しないようにしよ?あまり下品なのは嫌だけど。」

「あぁ。これで、やっと自然体になれるな」

「……でもさ、最初の一回目は、恥ずかしいからトイレでお願い」

「……今のが最初の一発なんだけど……」

「え? まじで⁉︎ あれ誠さんのだったの⁉︎」

「さっき“していいよ”って言ったじゃん!」

「いや、気づいてなかったよ! え~~! 初オナラ見逃した~!」

「見逃したって何!?」

2人は笑い転げた。

 

翌朝。

リビングに静寂が広がる中、2人の間でごく小さな音が鳴った。

——ぷっ。

誠が目を見開く。

「……美咲?」

「……気づいた?」

「……もしかして、今の…」

「気づいても言わないのがマナーでしょ。デリカシーだよ。デリカシー。そういうところを怒られてきたんじゃないの?」

美咲は膨れた顔をするが、すぐに2人でケラケラと笑った。

今日もこの家には、くだらない愛が溢れている。

25回目の結婚生活

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