木曜の夜。
仕事を終えて帰宅した俺――高梨誠(45歳)は、玄関でスーツを脱ぎながら心の中で深いため息をついた。
「……あー、疲れた。取引先の接待はやっぱり体力を吸い取られるな」
小さな会社の社長をやっていると、どうしても夜の付き合いは避けられない。ましてや今回は、新しい仕入れ先の社長が「銀座の行きつけがあるんですよ」と言ってきたら最後。断れば取引自体が流れる。つまり、俺に選択肢はなかった。
そして、案の定――キャバクラだった。
二十五回目の結婚生活を送っている男としては、これは死刑宣告に近いシチュエーションである。
とはいえ、ちゃんと俺は接待相手を盛り上げただけで、酒も飲んでないし、下心なんて毛ほどもない。名刺もらっても即シュレッダー行き――の予定だった。
そう。
本来なら、ここで物語は終わるはずだった。
……はずだった。
翌日
金曜日はいつも華金と称して社員達と飲みに行くことが多いのだが、昨日の接待の疲れもあり、早く帰った。
「誠さーん、お帰りなさーい」
リビングから美咲の声。柔らかい声が耳に飛び込む。
あぁ、俺の癒し。
俺の24度の過去をすべて許してくれた、奇跡のような存在だ。
俺は笑顔で「ただいま」と言おうとした、その瞬間。
美咲の声に、続きがついてきた。
「ねぇ、このお財布に入ってた名刺、なぁに?」
――血の気が引いた。
しまったーーーー!
財布を家に忘れていたのか。
最近はキャッシュレスばかりで、財布がなくても一日過ごせてしまう。
文明の進歩って素晴らしいよね。
だけど、今だけは本気で憎い……。
俺は玄関で靴を履いたまま固まった。
ゆっくり顔を上げる。
スローモーションのように視界に入ってきたのは――
キッチンに立つ美咲。
そしてその手に握られている、一枚の名刺。
「…………」
名刺には、煌びやかなゴールドの文字が印刷されていた。
『Club Venus Noa』
俺の脳内で警報が鳴る。
⸻
俺の脳内は、一瞬にしてフル回転を始めた。
名探偵モード、起動。
頭の中に、見慣れたフォルダが開く。
《高梨誠 結婚生活トラブル事件ファイル》
パラパラとページがめくられる。
(落ち着け……落ち着け俺。これは感情の問題じゃない)
これは――事件だ。
そして俺は、過去24回の結婚生活で学んだ。
夫婦トラブルはすべて“証拠”から始まる。
今回の証拠物件。
⸻
【証拠品A】
キャバクラの名刺
『Club Venus Noa』
⸻
(最悪だ)
俺は心の中でつぶやいた。
これはもう、ただの紙じゃない。
爆弾だ。
しかも安全ピンが外れかけているタイプの。
俺の脳内で、推理会議が始まる。
⸻
《対応シナリオ検討会議》
案①:正直作戦
「取引先に連れて行かれただけ」
→メリット
・事実
→デメリット
・「じゃあなんで名刺持ってるの?」問題が発生
過去データ参照。
⸻
【事件ファイル No.003】
3人目の妻
証拠:スナックのママの名刺
結果
→ 三日三晩の尋問
俺は無実だった。
だが――
証明はできなかった。
⸻
(……却下)
⸻
案②:拾った作戦
「これ?拾った」
→論理破綻
財布の中に落ちてる拾い物ってなんだ。
自動却下。
⸻
案③:ジョーク作戦
「その名刺?実は裏に暗号があって――」
→過去データ参照
⸻
【事件ファイル No.011】
発言
「キャバクラの名刺なんてただの紙だろ」
結果
→ 妻号泣
名言
「ただのってなによ!あなたにとって女はそんな軽い存在なの!?」
⸻
(ダメだ)
ジョークは火にガソリンだ。
⸻
案④:逆ギレ作戦
「俺は接待で戦ってるんだ!」
→過去データ参照
⸻
【事件ファイル No.019】
発言
「俺は仕事で戦ってる!」
返答
「じゃあ私は誰と戦えばいいの?私も毎日家事と戦ってるんだけも」
結果
→ 完全敗北
⸻
(……)
ページを閉じる。
そして俺は悟った。
逃げ道はない。
完全包囲だ。
⸻
そのとき。
リビングから、美咲の声がした。
「誠さーん?」
俺はゆっくり顔を上げる。
彼女の手には――
爆弾(名刺)。
そして俺は思った。
(頼む……)
(頼むから……)
(美咲、天然でいてくれ……!)
「ねぇ、これなに?」
美咲がもう一度、首を傾げて聞いてきた。
笑顔。笑顔なのに怖い。
俺はごくりと唾を飲み込む。
「えっと……それはだな……」
「うん?」
「取引先に、ちょっと、つきあいで……」
「ふーん。取引先ね」
声が一オクターブ下がった。
「いや、本当に仕事なんだ!ほら、俺、会社の付き合いで断れなくてさ」
「……そうなんだ。でも、なんでお財布に?」
来た。想定通りの二の矢。
ここで下手を打つと、地獄コースまっしぐらだ。
「いや、ほら……捨てるタイミングを逃して……」
「へぇ~」
美咲がにこりと笑う。
笑顔なのに冷や汗が止まらない。
「捨てるタイミングって難しいよね」
「そ、そうなんだよ!」
「私もレシート捨てるタイミングよく逃すもん」
「そうそう!それそれ!」
「でもレシートは財布に入れないけど」
「……」
しまった。
「いや、ほら、名刺ってさ……」
「うん?」
「一応、仕事の関係だから……」
「ふーん」
「ほら!相手に失礼かなと思って!」
「じゃあ取引先の社長の名刺も財布に入ってるの?」
「…………」
(しまったああああ)
俺は慌てて財布を開いた。
名刺入れは別にある。
財布の中にある名刺は――
このキャバ嬢の名刺だけ。
(詰みだ)
「ねぇ、誠さん」
「な、なんだい?」
「その名刺の人、かわいかった?」
想定外の質問。
過去の結婚生活でも、こんな質問は聞いたことがない。
冷静を装うにも、鼓動は勝手に早くなる。
「へっ!? いや、俺、顔とか全然見てなくて!」
「ふーん、顔見ないで飲んでたんだ」
美咲は目を細める。
「い、いや、その……仕事の話に集中して……」
「へぇ~」
「ほら!取引先の社長がずっと話してて!」
「キャバクラって仕事の話する場所なんだ」
「する!するする!」
「そうなんだ。知らなかった」
美咲は感心したように頷く。
「じゃあお酒は?」
「えっと……ウーロン茶を……」
これは本当なんだ。
信じてくれ!
「ふーん。偉いね」
「だろ?」
「キャバクラでウーロン茶って、なんか健康的」
「そうなんだよ!」
「で、何の仕事の話してたの?」
「え……えっと……」
脳が真っ白になった。
実際、ほとんど覚えていない。
氷がカランと鳴るグラス。
営業スマイルのお姉さん。
そして――
「誠さんも歌ってくださいよ!」
とマイクを渡された光景だけ。
「…………」
「…………」
沈黙が痛い。
(やばい、完全に追い詰められてる!)
「ねぇ誠さん」
「な、なんだい?」
「社長ってさ」
「うん」
「キャバクラって、よく行くものなの?」
「えっ」
(来た)
これは新しい角度の質問だ。
「い、いや!そんな頻繁じゃないよ!」
「じゃあどれぐらい?」
「どれぐらいって……」
(どれぐらいだ?)
俺は必死に考える。
「えっと……まぁ……」
「月一?」
「い、いやいや!」
「じゃあ年一?」
「……その中間ぐらい?」
「ふーん。中間って便利な言葉だね」
美咲は感心したように頷く。
「じゃあ誠さんは、行きたいから行くの?」
「違う違う!」
「仕事?」
「そう!仕事!」
「接待?」
「そうそう!」
「接待でキャバクラってよくあるの?」
「……ある!」
「へぇー」
美咲は少し首を傾げた。
「じゃあ社長ってさ、接待で女の人とお酒飲むのも仕事なんだね」
「……まぁ、そういう場合も」
俺の頭の中では、ありとあらゆる言い訳が浮かんでは消えていた。
「いや、あの……俺、本当に美咲一筋で……」
「うん、そうだと嬉しいな」
美咲は笑顔で答える。
しかしこの笑顔はなんだ。
許し?
呆れ?
怒り?
判断できない。
しどろもどろしていると、美咲は笑顔のまま
「ぷっ!ははははは」
と大声で笑い始めた。
突然のことに何が起こっているのか理解が追いつかない。
「わたし、誠さんのこと疑ってないよ?」
ちょっと笑涙を拭う仕草をしながら美咲は言った。
「え、ほんと?」
その言葉に少し心が軽くなった気がした。
「うん。ただ……」
美咲は名刺をひらひらさせながら言う。
「二十四回離婚してる誠さんが、どう答えるのかなーって思って」
――ぐはっ!
心臓にクリティカルヒット。
そうだ。俺の黒歴史。
どんなに真剣に否定しても、
24回の離婚歴が説得力を削り取る。
24回も離婚してる男がキャバクラに行く。
誰だって心配になる。
「……お、俺は変わったんだ……」
「ふふっ。そう思いたいな」
美咲はにこにこと笑いながらも、じっと俺を見ていた。
その瞳の奥に、わずかな試すような光。
「ねぇ誠さん」
「な、なに?」
「今度、私も接待連れてって」
俺は、汗だくになりながら、自分の言葉を探し続けるのだった――。


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