その日、私は仕事から少し早く帰ってきた。
冷蔵庫を開けると、誠さんが好きなビールがなくなっていたので、帰りにスーパーで大量に買ってきたのだ。
「今日はちょっとご褒美ね」
そう思いながらリビングに入ると、テーブルの上に誠さんの財布が置いてあった。
あら、珍しい。
誠さんが財布を忘れるなんてほとんどない。
最近はキャッシュレスばっかりって言ってたし、本当に気づかなかったのかもしれない。
お小遣いは足りてるかな?
私は軽い気持ちで財布を開いた。
そのときだった。
名刺が一枚、ひらりと落ちた。
『Club Venus Noa』
私はしばらくその名刺を見つめた。
(……キャバクラだ)
胸の奥が、少しだけチクッとした。
正直に言えば、いい気分ではない。
でも私は知っている。
誠さんは社長だ。
接待だってある。
だけど――
二十四回の離婚。
普通の人なら信じない数字。
それでも私は、この人を信じると決めた。
だから私は、名刺を持ったまま誠さんの帰りを待つことにした。
(さて、誠さんはどう答えるかな。ちょっと意地悪してみよ♪)
⸻
玄関のドアが開く音。
誠さんが帰ってきた。
私はできるだけ普通の声で言う。
「誠さーん、お帰りなさーい」
すると誠さんの声。
「ただいまー」
私は名刺をひらひらさせながら言った。
「ねぇ、このお財布に入ってた名刺、なぁに?」
その瞬間。
誠さんが固まった。
本当に、靴を履いたまま石像みたいに止まった。
(あ、これ絶対パニックになってる)
私は思わず笑いそうになるのをこらえた。
⸻
「えっと……それはだな……」
(声が震えてる)
「うん?」
私はにこにこして続きを待つ。
「取引先に、ちょっと、つきあいで……」
(やっぱり接待ね)
「ふーん。取引先ね」
わざと声を少し低くしてみる。
すると誠さんの背中がぴくっとした。
(ふふふ。わかりやすいなぁこの人)
「いや、本当に仕事なんだ!ほら、俺、会社の付き合いで断れなくてさ」
(いやいや、そんなに焦らなくても……怪しさ倍増だよ?)
「……そうなんだ。でも、なんでお財布に?」
これは純粋な疑問だった。
普通、名刺って名刺入れじゃないのかな?
「いや、ほら……捨てるタイミングを逃して……」
「へぇ~」
私は笑顔のまま頷く。
「捨てるタイミングって難しいよね」
餌を撒くように誠さんの味方をするように言ってみた。
すると誠さんは勢いよく言った。
「そ、そうなんだよ!」
(すっごい食いついた!!!)
「私もレシート捨てるタイミングよく逃すもん」
「そうそう!それそれ!」
(必死すぎるよ誠さん笑)
「でもレシートは財布に入れないけど」
「……」
誠さんが止まった。
(あ、今のはちょっと意地悪だったかな)
「いや、ほら、名刺ってさ……」
「うん?」
「一応、仕事の関係だから……」
「ふーん」
(本当だと思うけどね)
「ほら!相手に失礼かなと思って!」
「じゃあ取引先の社長の名刺も財布に入ってるの?」
誠さんが完全に止まった。
(あ、詰んだ顔してる)
誠さんは慌てて財布を開いた。
私は内心で思う。
(たぶん入ってないだろうな)
そして案の定。
「…………」
(やっぱり)
⸻
「ねぇ、誠さん」
「な、なんだい?」
「その名刺の人、かわいかった?」
これはちょっとした好奇心だった。
でも誠さんは飛び上がった。
「へっ!? いや、俺、顔とか全然見てなくて!」
(えー?それはそれで変じゃない?)
「ふーん、顔見ないで飲んでたんだ」
きっと私は無意識に意地悪な表情をしているんだろう。
誠さんの顔がどんどん赤くなる。
(この人、ほんと嘘つけないな)
「い、いや、その……仕事の話に集中して……」
「へぇ~」
(誠さん真面目だもんね。本当なんだろうな。かわいいなぁ)
「ほら!取引先の社長がずっと話してて!」
「キャバクラって仕事の話する場所なんだ」
「する!するする!」
(必死すぎるって)
「ふーん。そうなんだ。知らなかった」
私は少し感心したふりをする。
「じゃあお酒は?」
「えっと……ウーロン茶を……」
(ウーロン茶だけってことはないでしょ!流石に)
「ふーん。偉いね」
「だろ?」
「キャバクラでウーロン茶って、なんか健康的」
「そうなんだよ!」
(この人、ほんと素直)
「で、何の仕事の話してたの?」
「え……えっと……」
誠さんが固まった。
沈黙。
(あ、覚えてないんだ)
私はなんとなく想像できた。
たぶん歌とか歌わされたり、相手に気を遣うのに必死で話の内容とか覚えてないんだろうな。
⸻
沈黙が続く。
(この人、完全に追い詰められてる)
ちょっとだけ面白くなってきた。
⸻
「ねぇ誠さん」
「な、なんだい?」
「社長ってさ」
「うん」
「キャバクラって、よく行くものなの?」
これは単純な疑問だった。
「えっ」
(あ、また固まった)
「い、いや!そんな頻繁じゃないよ!」
「じゃあどれぐらい?」
「どれぐらいって……」
誠さんは必死に考えている。
(正直に言えばいいのに)
「えっと……まぁ……」
「月一?」
「い、いやいや!」
(声裏返った)
「じゃあ年一?」
「……その中間ぐらい?」
(中間ってなに)
その曖昧な答えに私はもっと意地悪をしたい気持ちになった。
「ふーん。中間って便利な言葉だね。じゃあ誠さんは、行きたいから行くの?」
「違う違う!」
「仕事?」
「そう!仕事!」
「接待?」
「そうそう!」
「接待でキャバクラってよくあるの?」
「……ある!」
(多分あるんだろうね。というか誠さんがキャバクラ行く理由なんてそれぐらいしかないだろうな。)
「へぇー」
私は少し首を傾げた。
「じゃあ社長ってさ、接待で女の人とお酒飲むのも仕事なんだね」
「……まぁ、そういう場合も」
誠さんの顔は、もう完全に汗だくだった。
⸻
「いや、あの……俺、本当に美咲一筋で……」
その言葉を聞いて、少しだけ胸が温かくなる。
「うん、そうだと嬉しいな」
私は笑って答えた。
正直、もう疑ってはいない。
いや。そもそも最初から。
だってこの人、
嘘つけなさすぎる。
⸻
誠さんはまだ何か言おうとしている。
私は、とうとう吹き出してしまった。
「ぷっ!ははははは」
誠さんがぽかんとしている。
「わたし、誠さんのこと疑ってないよ?」
「え、ほんと?」
少し安心した顔。
私は名刺をひらひらさせながら言った。
「うん。ただ……」
「二十四回離婚してる誠さんが、どう答えるのかなーって思って」
私がそう言ったとき、誠さんの顔が一瞬で曇った。
やっぱり、彼にとってこの数字は傷跡なんだ。
でも、それでも私は知ってる。
今の誠さんは、昔の誠さんとは違うって。
だって、私が知ってる誠さんは――
毎日「おかえり」と言えば必ず「ただいま」と返してくれる人。
お弁当を渡せば必ず「ありがとう、美咲」と笑ってくれる人。
くだらないエアコン温度のバトルすら、一緒に楽しんでくれる人。
「……お、俺は変わったんだ……」
誠さんは小さく言った。
「ふふっ。そう思いたいな」
私は名刺をテーブルに置いて、ふっと笑った。
「ねぇ、誠さん」
「……な、なんだ?」
「私ね、別にキャバクラくらいで怒ったりしないよ」
「えっ!?」
「だって、仕事でしょ? 社長さんなんだもん。付き合いがあるのはわかってるよ。ただね――」
私はじっと彼の目を見た。
「帰ってきて、私にちゃんと『楽しくなかったよ』って言ってくれたら、それでいいの。美咲と話す方が楽しいって。」
誠さんはしばらく黙っていたけれど、やがて小さくうなずいた。
「……美咲。本当に、俺は変わったんだ。信じてほしい」
「うん、信じるよ」
私は名刺をひらひらさせながら、ゴミ箱に向かってポイ。
……のつもりだった。
ぴたっ。
「あ」
名刺はゴミ箱の縁に当たって、床に落ちた。
「…………」
「…………」
誠さんが慌てて拾う。
そしてそのまま――
びりっ。
びりびりびりっ。
細かく破って、ゴミ箱に捨てた。
私は思わず笑った。
(そこまでしなくてもいいのに)
必死な誠さん。だけど――
少しだけ試してみたくなる。
⸻
「誠さん」
「な、なに?」
私は笑いながら言った。
「今度、私も接待連れてって」
誠さんの顔が、今までで一番青くなった。
私は心の中でくすっと笑う。
(冗談だよ)
でもたぶん、この人は――
本気で悩むんだろうな。
⸻
その夜。
布団の中で、誠さんが小声で呟いた。
「……ごめんな、美咲」
私は笑って答えた。
「次は隠すくらいなら名刺、ちゃんとその場で捨ててね」
「う……はい」
くだらないやり取りに、2人して声を殺して笑った。

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