土曜の昼下がり。
商店街には、ゆるやかな時間が流れていた。
昼の混雑がひと段落したあとの、少しだけ気の抜けた空気。
軒先からこぼれる揚げ物の油の匂いと、どこかの店で焙じられているコーヒーの香ばしさが、春のぬるい風に混ざって漂っている。
アーケード越しの光はやわらかく、行き交う人々の影を淡く地面に落としていた。
買い物袋を提げた主婦、手をつないだ親子、目的もなく歩いているような若者たち。
そのどれもが、急ぐ理由を持たない顔をしている。
誠もまた、その流れの中にいた。
隣には、美咲がいる。
特別なことは何もない。
けれど、こうして肩を並べて歩いているだけで、どこか世界の輪郭が穏やかに整っているような気がする。
「ねえ、見て!」
不意に、美咲が少しだけ弾んだ声を上げた。
指さした先には、小さなドーナツ屋。
ガラス越しに並ぶ丸い輪の中に、“期間限定 プリン味”と手書きの札が揺れている。
「お、いいね。帰りに買って帰る?」
誠は、看板を眺めながら答える。
本当は甘いものが特別好きなわけではない。
けれど、美咲が嬉しそうにするなら、それでいいと思う。
「うん、やった~!」
その無邪気な声に、誠はわずかに口元をゆるめた。
他愛のない会話。
どこにでもある、ありふれた午後。
けれど、こういう時間が、あとから振り返ったときに一番鮮明に残るのだと、誠はなんとなく知っている。
だからこそ、この瞬間が、静かに愛おしかった。
だが、このあと、世界は一瞬にして一変する──。
「……ねえ、さっきさ」
「ん?」
「他の女の人、見てたでしょ?」
⸻
緊急事態発生!緊急事態発生!!
誠の脳内に、赤いランプが灯り、非常ベルが鳴り響いた。
妻の「他の女見てたでしょ?」発言、確認されました!
対応を誤ると夫婦戦争勃発の恐れあり!
過去にも何回も夫婦喧嘩の発端となりかけた。
(うわぁ……きた! これはまずい! 誤魔化しちゃいけない、でも言い訳も地雷!)
⸻
誠の脳内では、脳内推理チームが始動していた。
【データ班】「13時42分、横断歩道前。前から歩いてきたOL風女性、通過確認。髪色は明るめブラウン。スカート短め。ヒール高め。」
【分析班】「おそらく彼女のことを言っていると思われます!」
【危機管理班】「対処を誤ると“バツ25”の危険あり!」
(いや待て、俺、見たっけ? ていうか、見たとしても“チラ見”だろ? 習性として無意識に視界に入っただけであって、決して“凝視”ではないはず!)
とりあえず、カマをかけてみよう。
⸻
「いや……たぶん見てないと思うよ?」
「ふーん。たぶんね……た・ぶ・ん!やっぱり見てたんだ」
(初手をミスった! 詰んだ……っ!!)
⸻
頭の中では更に急速に会議が進められていく。
ダメな返しランキング(誠の脳内)
頭の中でカウントダウンTVのセットが組まれる。
「さぁ。それでは妻からの『他の女みてたでしょ』と言われたときのダメな返しランキング第4位から2位をみていきましょう」
「カウントーーダウン!」
4位:「見てないよ」→ しらじらしいと怒られる
3位:「誰のこと?」→ 多数の人を見ていたと断定される
2位:「見たけど好みじゃない」→ 好みかどうかと性的な目で常に女性を見ていると思われる
ここで誠の脳内はカウントダウンTVのセットに戻る。
「いやー。2位の返しは怖かったですねー。バツ24もあって、まだ女を探すのかって思われたら最悪ですからねー。」
「それではついに気になる第1位」
「カウントーーーダウン!」
1位:「むしろ美咲のほうこそ、他の男見てたんじゃない?」→ 謎の責任転嫁で墓を掘る。大喧嘩に発展
(どう答えても、俺が悪いことになる構造じゃないか……!)
⸻
頭を悩ませていると、美咲が先に口を開いた。
「私、誠さんが他の人に目を向けてるの見ると、やだなって思う時あるんだ~」
(ひぇ……やっぱり本気で怒ってる。声は穏やかだけど、これはアレだ。笑顔の中の雷だ)
「いや、美咲以外、視界に入ってないよ」
美咲が和やかに話てくれたのを皮切りに、おだてて、この場を凌ごうと口が動く。
「じゃあ、なんでさっきあの女の人、二度見してたの?」
「えっ!? 二度見!? いや、あれは信号が……いや違う、風が……いや何の言い訳してんだ俺!!」
2手目もミスった。
せっかく美咲がチャンスをくれたのに…。
こうやって俺は過去24度、チャンスを逃してきたのか……。
誠は自己嫌悪に陥った。
「フフ。ごめんごめん、ちょっとからかいたくなっちゃっただけ」
美咲はぺろっと舌を出して笑った。
「……おい」
「でも、本当にちょっとやきもち焼いちゃったのはホント」
「……あのさ、男ってさ、無意識に見ちゃうときあるんだよ。見ようと思って見てるんじゃなくて……ただ視界に入ってくるというか……反射的に、こう……ね?」
誠は目線の再現をする。
「ふーん」
「うぅ……その“ふーん”が怖い……」
「じゃあさ、こんなのはどう?!」
「え、なに?」
「“一緒に見る”のはどう?」
「は?」
「今度から、通りすがりの綺麗なお姉さんがいたら、誠さんより先に私が『あの人、美人だね?』って言うから、誠さんは『いや美咲のほうが好きだけどね』って返すの!」
「なんだそれ……」
「で、逆もあり!イケメンの人がきたら、誠さんが、『あの人かっこいいね』って言うの!!そのあと私も『誠さんの方がかっこいいけどね~』って言う! で、おしまい!」
「……なにそのくだらないルール」
「くだらないのがいいの! 誠さん、くだらないの得意でしょ?」
「なにそれ誉めてるの? けなしてるの?」
「誉めてるに決まってるじゃん」
「……じゃあ試しにやってみようか」
誠から提案をする。
「え? 今?」
「うん、そこに歩いてるスーツの男性、イケメンじゃない?」
「うーん、好みじゃない。でも誠さんの方がかっこいいけどね~」
「はい、合格」
「わーい!」
こんなくだらない会話で問題は簡単に終わった。
帰り道、ドーナツ屋に立ち寄る。
「プリン味、2つ買う?」
「1個でいいよ。半分こしよ?」
「俺は1個丸々食べたかったけど……まぁ、いっか」
「でもさ……どんなに美味しくても、半分こしたほうが美味しいでしょ?」
「そういうセリフ、どこで仕入れてくるの?」
「保育園の園児に言われた」
「やっぱ子どもは偉大だな」
「うん。誠さんも、ちょっと子どもっぽいもんね」
「うるさいよ」
⸻
くだらない日々が、愛しい
結婚しても、ケンカもすれ違いもある。
でも、くだらないことで笑いあえる夫婦でいたい。
他の人を見ても、他の人に見惚れても、最後に目を合わせるのは、隣にいる美咲。
くだらない、でも尊い、25回目の結婚生活は、今日も続いていく。

コメント