別れの部屋の引っ越し
別れの部屋
その日の現場は、午前九時集合だった。
まだ夏の名残が残る朝で、窓から差し込む光が少し眩しい。
「今日の案件、女性一人っすか」
田口が伸びをしながら言う。ヘルメットはやや前のめり。
「そうだ。同棲してた彼との別れの引越しだ」
俺は簡潔に答える。田口はすぐには反応せず、少し間を置いた。
「……あー、なるほどっすね」
声のトーンで察したらしい。
現場は築十年の中層マンション。エントランスは清掃が行き届き、掲示板の注意書きもきっちり揃っていた。
部屋は二人暮らしだった名残が残る一LDK。ドアを開けると、微かに甘く湿った香りが漂った。
部屋に入ると、まず目に入ったのはリビングの棚。
写真立てに二人で写った笑顔の写真が数枚。
横には男性のジャケットと靴が整然と置かれている。
趣味の小物、たとえばボードゲームや本が控えめに棚の隅にある。
「……なんか、空気が沈んでますね」
田口が小声でつぶやく。
「感じたことは正直に受け止めろ。作業に影響する」
俺はそうだけ告げ、観察を続ける。
女性はソファに座り、ため息混じりに荷物を見ていた。
顔にはまだ涙の跡がある。表情は、この世の終わりのようだった。
「今日は搬出のみですね」
女性の声は落ち着いているが、明らかに心ここにあらず。
「了解です」
田口が軽く頷く。俺たちは黙って作業を開始した。
服は段ボール二箱に収められ、写真や本も丁寧にまとめられている。
家具は最低限。ソファはすでに解体済みで、残すは軽量のテーブルと椅子だけ。
キッチンも整理されていた。冷蔵庫の中には、カット野菜や作り置き容器が整然と並んでいる。
調味料は最小限で、砂糖や油は使い切った形跡がある。
日常の習慣だけがそこに残され、感情の乱れは表には出ていない。
搬出作業は滞りなく進む。女性は部屋にいても会話はほとんどなく、俺たちの動きを静かに見守るのみだった。
最後の段ボールを運び出すと、部屋は空っぽになる。しかし、空虚さよりも、むしろ静かな余韻が残った。
作業を終え、トラックへの積み込みも完了。
女性は軽く会釈し、無言のまま部屋を後にした。
田口が助手席で小さくつぶやく。
「……寂しいっすね」
俺はハンドルを握ったまま、何も返さなかった。
彼女の荷物に残る痕跡と、部屋の静けさだけを胸に刻んだ。
妄想タイム
トラックが静かに走り出した。
「……あの元カレ、どういう人だったんすかね」
田口が、ふと口にする。
「写真とか小物見たらだいたい想像つく」
俺はハンドルを握りながら荷物を眺める。
「服装はラフだけど、きれいに畳んである。靴も磨かれてる。性格は…真面目だけど、ちょっと融通が利かないタイプ」
「なるほど。じゃあ、付き合ってるときも完璧主義で、女性に振り回されるタイプ?」
「その通り。きっと、記念日もちゃんと覚える。花束もタイミング完璧」
俺が言うと、田口がニヤリと笑う。
「でも、サプライズは苦手そう。自分がルールに縛られてるから」
「そして、家の棚にあった漫画の置き方…おそらく趣味は完全に分けてる。ラノベと実用書でジャンル別、隙間もぴったり。生活も整理されすぎてる」
田口が目を輝かせる。
「おお、つまり付き合ってるときもデートの順番とか、予定を完璧に決めてたんすね」
「そうなるな。だけど…女性のほうも負けてない。別れる前日でも部屋の小物、完璧に整えてた。見た目は落ち込んでるけど、生活は完全制御下」
田口が笑いながら言う。
「怖っ! 元カレも女性も手強すぎる」
「そして写真…あの二人で撮ったプリクラ。背景でわかる。カフェ好き。おそらく休日はインテリアショップを回る」
田口が追い打ちをかける。
「じゃあ付き合ってたとき、二人で家具の配置にこだわってたんすね」
「間違いない。彼はデスクの角度、女性はソファの位置にうるさかった」
二人で声を出さずに笑う。
「でも、怒鳴り合いとかはなさそう。小さな不満は全部内に溜め込むタイプ」
田口が手を叩く。
「だから、別れたんだ」
俺がひとこと。
田口は一瞬黙った。
「きっとお互いに不満を溜め込んでいて、本音を見せ合えなかったんだ。だから分かれた」
「なんでそこまでわかるんですか?」
「部屋の荷物。男性のものが少しだけ残っていただろ。あれはきっと話し合って別れたんじゃなくて、衝動的に男性が出ていったんだ。必要最低限のものだけ持って」
「なるほど・・・」
「ちゃんとした別れ話をできなかったから、女性は気持ちを切り替えられないでいるんだ」
「いやー怖いっすね。生活痕跡で人柄丸見えとか」
「本当に。荷物から全て妄想され放題だ」
二人で肩をすくめる。
——そして、2日後。
俺たちは偶然、この女性の新居近くを通りかかった。
すると彼女は、新しい男性と手を繋ぎ、満面の笑みで歩いている。
「……女性って、こわいっすね」
田口がつぶやく。
「うむ。終わった恋も、荷物も、全部整理して、すぐ次の生活に切り替える」
俺も苦笑する。
人の人生は段ボールに詰まっている。
でも、女性の切り替え力は、段ボールに収まりきらないのだ。
※これは相馬と田口の妄想であり、必ずしもこの妄想の限りではない。


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