真夏の夜。外では蝉の声がやかましいほどに響き渡り、アスファルトに反射する熱気が街全体をむんとした空気で包み込んでいた。室内ではエアコンの低い唸りが耳に心地よく、だが同時に微かに緊張を孕んだ空気を運んでくる。誠はソファに腰を下ろし、リモコンを手にして数字を凝視していた。
設定温度――26度。
この数字には理由がある。もちろん「快適だから」というのもあるのだが、もう一つ、過去の苦い記憶が静かに重く影を落としていた。
誠はゆっくりと深呼吸をした。額にうっすらと汗が滲むのを感じながら、ソファの背にもたれかかる。手元のリモコンに指をかける度に、過去の忌まわしい夜の光景が次々と脳裏に浮かぶ。
4人目の妻は23度派だった。
「これが医学的に正しいの」と言われた。
医学とか言っていたが、おそらく出典はテレビの情報番組だ。
9人目の妻は25度固定。
ただし風量は“強”。
誠は毎晩、ドライヤーに向かって立つ前髪の気持ちになった。
15人目は27度。
「冷やしすぎは体に悪いから」と優しかったが、代わりに誠は朝までじんわり汗をかき続けた。
1番揉めたのは最初の妻
――冷静で理詰めの性格だが、感情の起伏が激しく、特にエアコンに関しては絶対的なこだわりがあった。
夏になると、家中の温度は常に22度前後に設定される。誠にとってそれは冷たすぎた。肌に触れる空気は鋭く冷たく、体を芯から冷やす。手足の先がしびれるように冷たくなり、心までどこか固く、疲弊する感覚になる。何度もお願いした。
「26度にしてくれ」と。
だが妻の答えは一貫してこうだった。
「我慢してよ、私が暑いんだから」
理屈ではなく、感情で押し通される。
誠は自分を押し殺し、耐え、我慢した。
その小さな我慢は、他の些細な不満と結びつき、やがて雪だるま式に膨れ上がっていった。
夕食のメニュー、休日の過ごし方、テレビ番組の選択――どれも小さなことだったが、いつしか互いの主張がぶつかり合う火種になった。
ある夜、誠はリビングの冷えた空気の中で、凍りついた言葉を交わし、離婚届にハンコを押した。
温度は違っても、
共通していたのは一つ。
「私が基準」
誠は毎回、少しだけ自分を後ろに下げた。
過去の胸の奥の痛み――すべてが今の誠の「26度」に集約されている。
これは、過去を繰り返さないための、自分を大事にするための数字でもあった。
「ふぅ~、やっぱり夏はエアコンですねぇ!」ソファに寝転び、美咲がにこにこと笑いながら声をあげる。
手にはアイスのカップ、口にはスプーンがふさがっている。
彼女の天真爛漫な笑顔が、蒸し暑さの中でひときわ眩しく映った。
「でもちょっと暑いなぁ。24度にしましょ!」
ピッ。リモコンを奪い取り、何の迷いもなく温度を下げる美咲。誠の胸の中で小さな警報が鳴った。
「おい、寒いって! 26度が一番ちょうどいいんだ!」
誠は慌てて抗議する。
だが美咲は全く動じない。
「え~? 24度こそ快適ですよ!」
その笑顔に理屈が通じる気がしない。
誠はリモコンを取り返そうと手を伸ばすが、タイミング悪く美咲がリモコンをひょいと持ち上げる。
二人の手が触れ、軽く押し合う。「あっ、手が!」「こら、引っ張るなって!」笑いながらも真剣に温度を巡る戦いが始まった。
「俺は24度だと体が冷えてだるくなるんだよ! 背中が寒くて寝られない!」
誠の訴えは切実だった。美咲は首をかしげて、しかし笑いをこらえながら答える。
「私は26度だと寝苦しいんです! 汗でべたべたになっちゃう!」
二人の間に、わずか2度の溝が生まれた。誠の頭の片隅に、過去の地雷回想がちらつく。あの冷たい部屋で、言い合いを重ねて離婚に至った夜の記憶だ。いや、違う。もう我慢はしない。今回は過去とは違う。相手は美咲だ。
「……さて、どうするか」誠は深呼吸し、心を落ち着ける。
ソファに深く腰掛け、視線を美咲に向ける。美咲は相変わらず無邪気で、瞳を輝かせている。
「ねぇ、誠さん、もっと寒い方が好き? それとも暑い方?」問いかける声に、誠は少し笑いながらも冷静に答える。「俺は26度がベスト。でも……お前の気持ちも大事だ」
その一言に、美咲は顔を輝かせる。
「じゃあ、間を取って25度にしよっか!」
彼女の提案に、誠は一瞬目を見開いた。間を取るという柔軟さ、二人の関係性を象徴するその解決策に、自然と笑みがこぼれる。
「じゃあ25度ね!」
「……それで手を打つか」
二人は布団に潜り込む。
静かになる部屋。
――やれやれ、平和だ。
そう思った五分後。
「やっぱり24!」
美咲が突如リモコンを押す。
「戻すな!」
ピッ。
安易に解決するわけではない。
二人の温度戦争は夜中も続く。
ベッドに入ってからも、誠が寝返りを打つたびにピッと26度に設定し、美咲がむくっと起きて24度に戻す。暗闇で続く無言のリモコン合戦。
汗ばむ額と冷たい手、互いの息遣いが近づくたびに小さな火花が散る。
誠は過去の自分を思い出す――もしこれが昔なら、言い合いになり、眠れずに朝を迎え、些細なことで口論が始まる。
しかし今、目の前には笑顔の美咲がいる。過去の自分とは全く違う空気が流れていた。
ふと、誠は自分の心を覗き込むように静かに思った。――これまで、何度も同じような温度差で関係がぎくしゃくしたことがあった。小さな我慢の積み重ねが、些細な口論を生み、やがて破局に繋がった。
でも今は違う。美咲は無理に自分の主張を押し通すことなく、互いの間を取ろうとしている。温度はちょっとした溝を生むが、それを埋める柔軟さがある。過去の記憶が胸に迫るが、今の幸せの前では軽やかに消えていく。
温度はやはり間の25度で落ち着いた。
「……誠さん、どうです? このまま寝ますか?」
美咲がそっと囁く。誠は目を閉じ、肩越しに微かに香るシャンプーの香りを感じる。
「うん、このままでいい」
彼の声に、美咲は満面の笑みで体を寄せた。二人の間に流れる静かな空気、柔らかな寝息、そしてほどよく冷えた空気。26度と24度の間、25度という完璧な折衷案が生まれ、真夏の夜は静かに、しかし確実に温かさで包まれていった。
誠は心の中でそっとつぶやいた。――この人となら、小さな温度差も笑って過ごせる。冷えすぎても、暑すぎても、それが夫婦の距離を決めるわけではない。大事なのは、互いを思いやり、柔軟に折り合いをつけること。設定温度25度。
きっとこれからも、その時の気分で温度問題は何度も勃発していくだろう。
しかし美咲とならそれすらも楽しんでいけるかもしれないと思った。
「……誠さん」
「ん?」
「寒くなったら言ってくださいね」
「そっちもな」
これからも続くであろう彼らの生活の、ちょうどいい真ん中。胸の奥にじんわりと温かさが広がる。エアコンの音も蝉の声も、二人にとって心地よいBGMに変わった。


コメント
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