その朝の食卓は、シンプルでありながら夫婦の平和を揺るがす料理が登場した。
そう――目玉焼きである。
フライパンからじゅうじゅうと小気味よい音を立てて、白身はふっくら、黄身は半熟。まるで料理雑誌の表紙を飾れそうな見事な焼き上がりだった。
美咲はにこにこ顔で皿に盛り付け、湯気を立てる味噌汁と炊き立てご飯とともに誠の前へと置く。
「じゃーん!今日の朝ごはんは目玉焼き!ご飯とお味噌汁と一緒にね」
「おお、いいねぇ。こういう朝食が一番落ち着くんだよ」
誠は箸を取り、思わず笑みをこぼした。こういう何気ない朝が、実は一番沁みる。二十五度目の結婚でようやく辿り着いた「普通の幸せ」だ。
――だったはずなのだが。
誠は反射的にソースへと手を伸ばした。その瞬間、美咲の声が響く。
「えっ!?ちょっと待って!誠さん、まさか……」
「ん?どうした」
「目玉焼きにソース……かけるの……?」
空気が凍りついた。
雷鳴が轟いたような錯覚すら覚える。
誠はゆっくりとソースの瓶を持ったままフリーズした。
「え、いや……普通に、かけるけど……?」
「えーーっ!!目玉焼きは醤油でしょ!?ソースなんて、絶対おかしいよ!」
美咲は両手を広げて大げさにリアクションする。天然全開の顔だ。
だが、誠にとっては笑い事ではなかった。
目の前で笑う美咲。
だが誠の脳内では、すでに非常事態警報が鳴り響いていた。
――来た。
調味料問題。
誠は静かに箸を置き、心の奥深くでスイッチを入れる。
カチリ。
現れたのは、スーツ姿のもう一人の自分。
名探偵誠。
彼は静かに黒板の前に立つ。
「案件番号:25-SS-01。通称“目玉焼き戦争”。本件は軽視してはならない。過去24件の結婚生活において、調味料問題は離婚原因ランキング上位常連である」
チョークが鳴る。
「では、過去の事件ファイルを確認しよう」
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◆事件ファイル1:塩コショウの乱
「目玉焼きにソース!?信じられない!味覚オンチってやつね!」
被疑者:塩コショウ至上主義の元妻。
ソース投入直後、激昂。
二週間に渡り「味覚不一致問題」を蒸し返される。
教訓:初動対応を誤ると長期戦化する。
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◆事件ファイル7:ケチャップ包囲網
「目玉焼きはケチャップ!ソースとか絶望的にセンスない!」
被疑者:ケチャップ派元妻。
実家帰省時、義母を巻き込みケチャップ統一政策を施行。
ソースは“反逆の象徴”と認定。
教訓:敵は家庭内にとどまらない。
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◆事件ファイル14:マヨネーズ革命
「ソース!?醤油!?どっちも古いわ!現代はマヨネーズよ!」
被疑者:マヨネーズ至上主義者。
白身を覆い尽くすマヨネーズの奔流。
三日で一本消費。
健康診断:要再検査。
教訓:思想が強すぎると身体に出る。
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黒板に赤字で書かれる。
【結論:目玉焼きは地雷】
名探偵誠は腕を組む。
「今回の被疑者――美咲。天然笑顔。だが油断は禁物」
現実世界で、美咲が首をかしげる。
心の中で、探偵誠が深く息を吐いた。
「……ここが分岐点だ」
⸻
◆誠の脳内推理会議
「仮説その1:ここでソースを譲らず、堂々と使う」
→ 美咲に「味覚オンチ扱い」をされ、気まずい空気が一週間続く。
「仮説その2:醤油に合わせる」
→ その場は平和。しかし『また我慢してしまった』と誠の心にしこりが残る。二十五度目の結婚で我慢から始まるのは危険。
「仮説その3:ハーフ&ハーフ作戦」
→ 黄身にソース、白身に醤油。
が、歴代妻との経験からすると『中途半端は余計に怒られる』リスク大。
「仮説その4:調味料ナシ」
→ 「素材の味を大事にする夫」アピール。だが美咲から『気取ってる!』と笑われる可能性がある。
誠の頭の中で黒板がカリカリと音を立て、数式のように「夫婦円満確率」が書き殴られる。
結論:どの道、詰み。
「誠さん……本当にソース派なの?」
美咲が首をかしげて覗き込む。
誠は観念し、口を開いた。
「……ああ。俺は、ソース派だ」
ピシッ、と空気が張り詰める。
だが次の瞬間、美咲はにっこり笑った。
「じゃあ、ソースかけなよ!私も醤油かけるから!」
「え?」
「だって、どっちも調味料として美味しいじゃん!誠さんがソースで美味しいって思うなら、それが一番でしょ」
結局、二人で目玉焼きを半分こして、片方はソース・片方は醤油で食べて「どっちもうまいな」と笑い合った。
「ねぇねぇ、誠さん!今度さ色んな調味料で試してみようよ!もしかしたら思ってた以上に合う調味料あるかもよ?」
誠は少し驚いた。
確かにそうかもしれない。
今までこの食材にはこの調味料という固定概念に囚われすぎていた!
こうやって2人で新しい発見をしていくのも夫婦なのかもしれない。
「そうだな」
⸻
その朝、誠はご飯を食べ終え、味噌汁をすすりながらふと思った。
歴代24人の妻たちは、調味料一つで彼を断罪し、支配しようとした。
だが美咲は、ただ「一緒に食べて、美味しいね」と笑う。
それだけの違いが、これほど心を軽くするとは。
「……やっぱり、俺は幸せ者だな」
美咲はもう出勤の準備をしている。
台所から「お弁当にはケチャップかけといたよ~!」と声が聞こえ、誠は思わず吹き出した。
――実験は、もう始まっているらしい。
くだらない葛藤は、今朝もまた、幸せのスパイスになっていた。


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